自己紹介をします。

けーらんねーらん、くよまなーら。ばーやメブレぬヤチフチゆー。やちふち日記へおーりとーり、しかいとぅ ふくらはゆー。

こんにちは。前盛よもぎ(@yomo_mebure)です。はじめの挨拶は地元の方言です。

今日は自分の生きてきた22年間をゆっくり振り返って、プロフィールを書いてみます。長くなると思うので、休憩をはさみながらどうぞ。

はじめに、私が生まれ育った沖縄県石垣島はこんなところ

いま私が住んでいる岐阜県白川村はこんなところ 

基本情報

呼び名:よも、よもも、もぎもぎ、よもよも、ぎーよも、よもっちゃん、よぎも、など
趣味:踊ること・書くこと・撮ること
好きなもの:味噌汁・夜・海・山・川・湖・本・家
苦手なもの:蜘蛛・カマドウマ(最近は共存できるようになってきたけど)
誕生日:1995年6月10日
出身学校:伊原間保育園・海星幼稚園・伊野田小学校・伊原間中学校・八重山高校・早稲田大学人間科学部
ルーツ:星野・野底・白保

略歴

1995年 沖縄県石垣島、自宅の五右衛門風呂ごえもんぶろの中で誕生。(当時両親はヒッピーだったそうな。)

海辺の古い木造の家で、面倒見のいい動物たちに囲まれて育ちました。

通っていた幼稚園は、子どもの感性を伸び伸びと育ててくれるカトリックの園で、シスターや神父さんが温かい人だったのを覚えています。私が教育分野に興味があるのは、この辺りの幼少期の記憶も影響している気がします。

朝の会のこの時間、ゆらゆら揺れるロウソクの火を見ているのが好きだった。

小学校に上がると、仲良しの兄々姉々が沢山できました。小規模校だったので、同級生は野生児のような男の子が1人だけでしたが、お互いの持ってない部分を補い合ういいコンビだったように思います。

毎日、陽が暮れるまで海で走り回り、タコを捕まえたり木の上に秘密基地を作ったりして遊んでいました。

中学校に上がると、同級生が増え、4人クラスになりました。

私は当時からかなりマイペースで、女の子同士のグループ行動などについていけないような子どもだったと思うので、呑気な男友達と平和に学校生活を過ごせたのは幸せなことでした。

授業中やることがなさすぎて(人数少ないからあっという間に教科書の内容が終わってしまう)、浜に散歩に行ったり、山に登ったり、ピクニックしたり、ベランダで昼寝したり、先生の車でドライブしたり、自由奔放に過ごしていました。

当時の先生たちはみんないい感じにゆるくて、個性豊かなクラスを否定せず、対等に付き合ってくれる大人ばかりでした。ありがたや。中学の先生たち、久しぶりに会いたいな。

小さな島の「選択肢の少なさ」が私を育ててくれた。

私はもともと人前に立つことが得意ではない性格だったんですが、小さな地域ゆえに、あらゆる学校行事・地域行事で無理やり代表挨拶を任され、下の子の面倒役や、チームのまとめ役、部活の大会(下手でもなんでもレギュラー選手)、苦手な陸上大会の代表選手、弁論大会、生徒会長など、いつの間にかひと通りこなせるようになっていました。

当時は全て自分がやらなきゃいけない環境が恨めしくてよく泣いていましたが、今思えばそのおかげで度胸がつき、広い世界に出て行くチャンスをもらい、良き友と出会うことができました。

地域の大人から褒めてもらう機会が多かったおかげで、頑張った分だけちゃんと自分に返ってくるのだということを早いうちに知ることができたのだと思います。

本来1人でぼーっとしているタイプだった私は、大きな学校で育っていたらこんなにも多くの成長の機会・挑戦の場は巡ってこなかっただろうと思います。

選べる選択肢は多い方が幸せだとは思うけれど、「田舎の選択肢の少なさ」「多様性の乏しさ」が、逆に子どもの個性を引き出し、可能性を広げてくれることもあるんですよね。

本気で打ち込める「自分の居場所」が見つかり始めたのもこの時期でした。

幼少期から習い続けていた八重山舞踊(地域の郷土芸能)や、

地域の演劇団体「オヤケアカハチ」での舞台活動、

ストリートダンスや、世界中から同世代のウチナンチュが集まって沖縄について学ぶJSTプロジェクトなど、

学校以外の世界の面白さ、一つの目標に向かって一生懸命打ち込むことの楽しさ、島の先輩たち・大人たちのかっこよさを知った中学時代でした。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」に納得した中学の卒業式。

これは中学の卒業式の日に母が話していて印象的だった言葉なんですが、

よも母
子ども時代に、温かいコミュニティーで「鶏口けいこう」(小さな組織のトップ)を経験できることは、とてもラッキーなことだと思うよ。

リーダーのポジションで物事を成し遂げた経験があると、色んな立場の人の苦労や痛みを理解できるようになるし、自分への安心感や他人への信頼感、「世の中は楽しいものだ」っていう生きる上での精神的基礎力みたいなものが、身につくからね。

牛後ぎゅうご」(大きな組織の一員)の経験をするのは、大人になってからでも、いつでもできる。

中学生くらいまでは、自分の存在を肯定できるような小さな成功経験をたくさん積むこと。その上で、自我が確立された高校生くらいからは、”広い世界の中の小さな自分”という立ち位置を知るのも大事だね。

この順番が逆になると、「牛後ぎゅうご」のポジションに慣れちゃって、本来自分が持ってるはずの能力に気づくチャンスが減ってしまったり、人の気持ちを思いやる習慣が身に付かなかったりするよね。

と言っていて、深く共感したのを覚えています。

私は幼い頃、完璧主義的な生真面目な一面がありました。自分への肯定感もなぜだかとても低かったし、他人に対しての許容キャパも小さく、少し生きづらい性格だったように思います。

物凄く心配性で、家族の帰りが遅かったり、飼っている動物たちの体調が悪くなったりすると、勝手に悲しい想像をして隠れてシクシク泣いていたような子どもでした。

そんな私が、成長と共に「大抵のことはなんくるなる。自分の人生は必ず自分でなんとかできるから大丈夫!」というポジティブさや自分への安心感を持てるようになっていったのは、こども時代にこの「鶏口」の経験をたくさん積ませてもらったおかげだなと感じるのです。

私は最近になって「人が豊かに生きていくための学びの場づくり」に熱中しているんですが、もしかするとその思いの原点は、この頃の経験にあるのかもしれません。

スーパーハードな高校時代。

高校は、島に3つある高校(商業・農業・普通校)のうち、普通校に進学。全国大会1位を目指す「カラーガード部」と、「発展クラス」という受験を頑張るクラスに入りました。

高校は1学年6クラスあり、初めて教室に40人もの生徒が詰まっているのを見たときは「あんな近距離で人が座るなんて苦しそうすぎる・・」と衝撃を受けたのを覚えています。

毎日、発展クラスの早朝講座、生徒会活動、八重山舞踊の稽古、演劇団体の稽古、部活の朝練・夜練、地域行事での舞台出演、青年会活動と、自転車の移動中にご飯を食べるような多忙な日々でしたが、好きなことに思い切り打ち込める生活は楽しいものでした。

学校行事も大好きだったので、エンターテイナーとしての才能あふれる同世代が集結していた八重山高校はとても面白く、幸せな思い出が沢山できました。

(写真を振り返り始めるとキリが無いんだけど、ついたくさん選んでしまう・・・)

今でも強く記憶に残っているのは、部活の全国大会での金賞獲得の瞬間や

私にとって最高の学びの場であり、酸いも甘いも詰まった青春の場であった「アカハチ」の舞台の、卒業公演の日のこと。

八重山舞踊の大舞台で初めて1人舞いを任せてもらった日のこと。

学校の文化祭・舞台祭・ダンス発表会なんかで、クラスリーダーを任せてもらった舞台作品が、受賞したときのこと。

そんな特別な瞬間はやっぱり心にずっしり残っていて。あの頃に一緒に頑張り抜いた仲間や、先輩、後輩、支えてくれた大人の存在は、本当に大切な宝になりました。

高校時代の記憶って、何度思い出しても心がきゅっとなって、もう戻れない切なさと幸せが詰まっているよね・・・。これが世に言うエモいって感情なのか・・・。

「感動体験が子どもを育てる」という、沖縄の舞台演出家・平田大一さんの言葉の意味を、身をもって噛み締めていた日々だったように思います。

語学留学や舞台の海外公演など、本格的な海外滞在を初めて経験したのもこの時期で、生き方の多様さ、文化の違いの面白さ、世界の広さを実感しました。

決して裕福ではなかったのに、色々やらせてくれてあちこち行かせてくれた家族に感謝です。私も島の子どもたち・後輩たちに広い選択肢を見せられる存在であれるよう頑張らねばと、背筋が伸びます。

人生で大事なことは、全て島が教えてくれた。

長っ々とすいません。でもせっかくの機会だから、もうちょっとだけ。

私は、生きる上での力は幼少期に全て教わったと思っていて、島の大自然や、穏やかな時間の流れ、豊かな文化、土地の美しさが染み込んだ伝統芸能、大人たちの温かさ、「許す文化」の中で育ってきた友達たちのゆるさが、私の人格形成に深く影響していると感じています。

あったかい島の空気や、友達と道路で寝転んで見上げた星空の広さ、冷たいアスファルトの気持ちよさ、真っ暗な海で波の音を聞きながら語り合った時間、潮の匂い、獅子をまわす三線の音、浜で見上げる月の綺麗さ、御嶽うたきで輪になって歌い踊り明かす豊年祭の夜の あの不思議な熱気と一体感、島唄の言葉の美しさ、おばーたちのこねり手、そんな全てが好きで、大事で、石垣に生まれてよかったとよく思っていました。

家族や友人と日常的に人生についての話ができたことも、とても幸せなことだったように思います。

一時期、実父のアル中問題や、両親の離別、引越し、母の体調不良、慣れない義父との同居などで精神状態がふわふわしていた時期にも、友達や周りの大人たちがずっと側であったかく見守っていてくれたから、いまの私が在るのだと感じています。家族のように面倒を見てくれた沢山の方々に、本当に感謝です。

島の空気は言葉では伝わらんので、祭りの写真も載せます。

18歳の春、期待と不安を胸に東京へ

八重山高校を卒業した2014年の3月に、早稲田大学進学のため上京しました。島から東京へ向かう飛行機の中で、見送りに来てくれた友達や先輩・後輩・家族からの手紙を読んで1人泣いたのを覚えています。

右も左も分からぬ中で入学した大学は、面白い人や素敵な場との出会いがたくさんあり、”井の中”で生きてきた私が”大海”を知るための、よき学びの場になりました。高校時代、進路を決め兼ねていた私に、「早稲田」「東京」という場所を教えてくれた謝敷先生、本当にありがとう。

大学1年生時代は、やってみたいことが多すぎて、バイト4つ(塾講師・ブライダルスタッフ・フレンチビストロ・料亭の仲居さん)と、サークル2つ(ストリートダンス・ジャズダンス)を掛け持ちしていて、校外でも興味のあるイベントやコミュニティに飛び込みまくっていました。

沖縄の同級生と「ふぁむれうた」という八重山芸能のユニットを組んで、都内の沖縄料理屋やイベント会場でライブなんかもしていて、毎日踊りまくり働きまくりの、もう勉強は2の次の学生生活でした。

東京は島に無いものばかりで、新鮮でとても楽しかった反面、今まで打ち込んで来たことや人間関係が1からスタートになり、自分が何者でもない感覚や、居場所が定まらない感じが不安で、夢中になれるものを探し求めていたんだろうと、今になって思います。

大学の勉強もこれといって面白いものが見つからず、「このまま4年間を過ごしてしまっていいのだろうか」と焦り、当時から関心のあった「場づくり」「教育」「地域」などのキーワードを中心に、色々な場に顔を出していました。

大学1年生の秋、休学を決意

そんな自分探しをしていた時期にご縁があったのが、岐阜県の白川村でした。

当時は「白川村」という場所や「地域おこし協力隊」という仕事についても無知で、「休学」という選択肢も考えたことさえありませんでしたが、「何か面白い挑戦がしたい!情熱を持って取り組めるものが欲しい!」と思っていた私にとって、白川村での話は直感的にとても良い感じがして、勢いで飛び込んでみたんです。

諸々の応募条件を満たしていない中 ダメ元で挑んだ選考でしたが、まさかの採用の連絡を頂き。次の日には大学に休学届けを提出して、大学1年生を終えた3月に白川村に引っ越しました。

現在、白川村でやっている仕事について

2015年の春に白川村地域おこし協力隊として着任して、2017年9月現在、白川村に暮らして3年目になりました。村に来た時は19歳でしたが、気づけばもう22歳です。

半年後には地域おこし協力隊の任期を終えますが、来年4月からも引き続きここに残り、白川村でまちづくりの仕事をしている会社「一般社団法人ホワイエ」で働きます。

仕事内容は大きく変わらず、白川村をフィールドにした様々なイベント企画、講座運営、行政との移住のコーディネート業や、村の教育施設として使っている合掌家屋を始めとする移住体験住宅の物件管理、などをします。下記に活動を載せるので、興味がある方は気楽にご連絡ください。これから新しく挑戦していくプロジェクトについても、今後ちょっとずつ書き加えていけたらと思っています。

自分らしく生きたい人の学びの場 「白川郷ヒト大学」

地域発信の面白い学びの場を作りたくて始めたソーシャル大学。白川村全体がキャンパスの、誰でも学生になれる大学です。地域課題をポップに解決することや、都市部の若者が地域に関わるきっかけを作ること、田舎で才能を持て余してる若者の新しい挑戦の場を作ることを目指しています。現在、地元の沖縄県石垣島と三重県尾鷲にも拠点を準備中!

シェアハウス「やまごや以上ほしぞら未満」と1棟貸し「だいだいどころ」

白川村の暮らしに興味がある方や、自然豊かな場所で創作活動をしたい方に向けて、お試し移住住宅の運営をしています。「自分らしく生きる」選択肢のひとつとして、この土地の生活を楽しむ人が増えて、多様性の豊かな村になっていくといいなと思っています。気楽にお問い合わせください。

地域リーダー育成講座 「かやっこ劇団」

地域リーダーの育成を目的に、村の小中高生を対象とした白川村の歴史を題材にした舞台づくりをしています。小さな地域にも、子どもたちが心豊かに自由に育つための学びの場の選択肢を増やすこと。多様な出会いを通して広い視野と自分らしく生きる力を身につけることを目指しています。村内外での公演や舞台出演、他団体との文化交流、学生団体の合宿受け入れなどをしています。

村民が主役のフリーペーパー  「そんみんし」

白川村の「ヒトが主役」のローカルマガジンを発行しています。村の暮らしの魅力を伝えるだけでなく、地域で志高く生きているヒトの姿・熱い思いを、地元の若者に伝える翻訳媒体でありたいと思っています。

今日も全開 「やまよの家」

白川村の端っこにある私の自宅。今は住み開きのようなことをしていますが、今後シェアハウス・ゲストハウス・コワーキングスペース・イベントスペースとしてオープンに運営していきたいと思っています。

誰もが自分らしく生きること、ホッとできる場所を増やすこと、多様な生き方・価値観と出会うこと、1人1人の心の許容度が広がること、人と土地の魅力が 温度感のある交流をもってシェアされること、しんどい状況の人が誰でもいつでも使える駆け込み寺的な場所が増えること、を思い描きながら、この家を活用していきたいと思ってます。運営仲間も募集中!

最後に、今後の目標も少し。

今年の目標は、好きなことだけで食えるようになることです。

好きな土地で、自分が誇りと納得感を持って向き合える仕事をもち、大切な人とゆっくり対話する時間を大事にして、生きていきたい。

私の思考やスタンスは日々移り変わると思いますが、今年はひとまず白川村と石垣島を行ったり来たりしながら、自分の活動にのめり込んで暮らしてみます。大好きなひと・もの・ことに心を込めて向き合って、自分の納得感を大事にしながら価値あるものを創り出して行けるよう頑張ります。

おまけ | よもぎ という名前の由来について。

よく人に訊かれるので、母に確認してみたところ、

よも母
ヨモギの葉っぱは、世界中のどんな土地でも生えてる草で、簡単なことでは絶えない強さと逞しさがあるさね。人のお腹を満たしたり、傷や病を癒したり、目立たないところでいつも人の役にたってる。だから、そんなヨモギの葉っぱのように、どんな場所でも深く根を張って、人を幸せにする子になってほしいと思ってつけたよ。

とのこと。当時ヨモギを使った民間療法やマクロビの料理にはまっていたことも影響しているそうです。

ちなみに、ヨモギは沖縄の方言では「フーチバー」、白保村の方言では「ヤチフチ」と言い、ヤギ汁・牛汁に乗せて食べたり、熱出した時に揉んで体をさすったり、傷口に当てて止血したり、百草もぐさにして使ったりします。白川村でも、草餅や天ぷら、薬草茶として使われています。

よもぎの葉っぱのように、そっと人の暮らしを豊かにする存在になれたらいいなと思っています。魂にしっくり来る名をありがとう。

なっがい自己紹介、最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました!