はいさーい☺️🌺

ブログを見にきてくれたあなたへ、もしかしたらすごくお久しぶりな方も、お元気されていますか〜

最近は、ゆっくり自分のブログを書くということも、なかなかできていませんでしたが、前盛は相変わらず周りの皆様に存分にお世話になりながら、南の島で今日も元気に、日々の幸せを噛み締めながら、生きてます。

ブログの更新は止まっちゃっていたけど、文字を綴ること自体は、少しずつ積み重ねています。

 

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ここ(個人ブログ)でも、いつかゆっくりと考えて書きたい大きなテーマがいくつかあるんだけど、それを言ってたら今までなかなか書けずにきたので、今日は普通にラフな日々の記録を残しますね。

ちなみに、日常の暮らしの発信とか、かっこつけていない何気ない島の風景とか力の抜けた発信は、Instagramのストーリーズの方で日々更新しているので、良かったらインスタとかのSNSでも繋がってください🙇‍

▽ こちらは八重山ヒト大学の活動記録。

 

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https://twitter.com/yaeyama_hitodai/status/1381493195977097216?s=20

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△ 八重山ヒト大学の方も、こんな感じで日々サイトにアップされていく記事や活動のお知らせとかもしているので、ぜひ各種SNSフォローしてくださいな♩


 

今年もやりたいことが沢山ありますが、去年よくよく学んだ、「不必要に急がず、無理せず、周りと比べて勝手に焦ったりもせず、自分のペースを大事にして生きる」ということを、これからは常に体の中心に置くようにして、大事なひとと一緒に過ごせる時間を大切にして、日々の暮らしを人間らしいペースで丁寧に営んで、家族や仲間たちと楽しく、そして息長く、明るく人生を歩んでいけたらいいなと思っています。

△ ここらへんは、白川で過ごしていた温かい懐かしい記憶が蘇ってきてしまって つい投稿してしまったものたち。

白川にはいつになったら行けるかな、とずっと思っていたんだけど、

ついに最近、やっと、やっとやっと!!!!!

具体的な日程を検討し始められて、各所への相談の結果、日程が決定しましたよ〜

去年の入院中は(退院時期が秋だったこともあって)「雪が降り始まる前には行きたいな」と思っていたけど、実際は私の回復状態(身体機能も脳機能もどちらも)的にも、退院したての頃のいろいろ不自由だった状態で あの広大なお家を整理することは明らかに無理だったので、まだまだ今もコロナによる世の中の混乱は続いている状態だけれど、あのとき無理して急いで行かずに、今年まで待って良かったな、と思っています。

(今も、脳が損傷うけたことによる「易疲労性」という症状はまだまだ顕著にあって、受傷初期よりは物凄く回復させてもらったとはいえ、やっぱり健常時よりもすごく疲れやすくて作業中とかでもすぐ眠くなっちゃうので、白川行ける日までにはもっと回復目指さねばです。)

・・・と、前置きが長ったらしくなってしまいましたが、白川には、10/21からの1週間 、滞在させてもらうことになりそうです。その前後で関東滞在もします。

家の整理や、お世話になった各地域の方々へのご挨拶周りとか、1週間で何をどのくらい進めるのを目標にするのかとか、まだまだ考えきれていないことは沢山ですが、また今後具体的に作業内容とかスケジュールが決まってくるのが楽しみであり、

その反面、「ついに、人生の中でめっちゃ大きな出来事や出会いを経験させてもらった場所に、1つの区切りをつけにいく日が、近づいてきてしまっているんだな・・・」と、ちょっと切なくなったりも、しています。

今年の祭りがどうなるのかとか、いま沖縄から白川に行くことを白川村の皆様がどう思うのかとか、分からないけど、同行してくれる母の仕事の関係とかもあって 小白川(私が住ませてもらっていた地域)の祭りとも日程がたまたま被りそうなので(白川村の秋祭りは日程固定で開催します)、何かしら最後にお手伝いさせてもらえることがあったらいいなとかも、ちょっと思っています。

取り急ぎですが、お世話になった皆様とは、滞在中 どこかでゆっくり顔を合わせてお話ができたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いします🙇‍

 

あとね、先日無事に、26歳を迎えられました。

当日は、去年の事故きっかけにお世話になった病院スタッフの皆様と画面通話とかもできて、お世話になっていた同じ誕生日の看護師さんにもおめでとう伝えられたし、みんなの顔を見れて声を聞けてすごく嬉しかったし、去年 病院でしんみり迎えた誕生日のことを思い出したりもしました。

家族とも、去年の怒涛の出来事をゆっくり振り返ったりする時間を過ごせました。去年、私が事故を起こした時間が夕方だったこともあって、当時の環境でお世話になっていた方々、近くにいてくれたみなさんが、本当なら仕事終わりで1日お疲れ様の時間に、連絡先が分からない私の家族に連絡を入れるために 色んな人が色んな場所で駆け回ってくれたことも、聞きました。

(結果、島で1番最初に連絡を受けて、なるべく早く家族に繋ぐために走り回ってくれたのは、一緒に八重山ヒト大学をやっている千花姉でした。お騒がせしてしまって大変申し訳なかったです。圧倒的感謝。)

 

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千花姉には、退院後の社会復帰・復職の道のりの上でもすごくお世話になっているんですが、退院後初めてとある仕事を任せてもらったときに、私が全然前みたいにできなくて、期限内で終わらせられなかったことに激しく落ち込んで謝ったときにも

ちかね
私もよもぎ自身も、お互いの今を知る一回目のタイミングで、予定通りに無理矢理いかせるよりも、出来ること今は難しいことに直面しながら、都度調整してよもぎの今を知りたい思いの方が強かったので、全然私はガッカリもしてないし、迷惑な思いも1ミリもしてないよ! 〇〇さん(前盛が帰島後からお世話になっている島のSTさんで、千花姉も昔から共通の知人)には「予定通りにいかないことや失敗とちゃんと向き合って、”じゃあ次はこうしよう”っていう風にその失敗や困難から振り返って、遂行機能のリハビリをしてほしい(前盛は「遂行機能障害」という症状もあります)」って言ってもらえているから、まさにそれだなーって思ってるよ😊

と、なんとも器大きく、なんとも温かく、向き合って頂いています。

そのときの仕事の納品が終わったタイミングでも、お互いのフィードバックをしっかりゆっくりさせてもらえて、なんとも恵まれた環境で生かしてもらえていることを、再実感しました。


最後に1つ、節目の記録として。

去年、事故した日に救急搬送してもらった岐阜高山の病院のICUに、石垣から母が仕事とか諸々の都合を無理矢理つけて駆けつけてきてくれたそうなんですが、人工呼吸器(見た目も音も結構派手な救命の医療器具)に生かされている私を見たとき、

母は泣き崩れたりもせずなぜか冷静だったそうですが、「なんで こんなことになったんだろう、、、?」という、深いショックと絶望で放心状態みたいな状態になったと、後から聞きました。

「親を残して子どもが先に死ぬかもしれない」という恐怖を、両親に味わわせてしまったんだな。1番の親不孝をしてしまったんだな。と、すごく胸が苦しくなりした。

去年退院して石垣島に帰ってきた夜、「もし あのとき よもぎがいなくなっていたら、私たち(父と母)は一生家からも出ず、ただただ毎日を抜け殻のように生きていたと思う」と、両親の当時の心境を聞かせてもらったときに、「私は恐ろしいことをするところだったんだな・・・」と改めて実感して、

入院中、意識が戻ってやっと自分の状態を理解し始めた頃に「こんな状態で生きていかなきゃいけないなら、もう死にたい。」とか言ってしまっていたことに、深い申し訳なさで震えました。

ああいうときに、自分の大事な人が「あなたの存在は、私の生きる価値でもあるんだよ」と言ってくれたことへの感謝は、ずっと忘れません。あの頃の私は、自分の生きる意味が本当に分からなくて、命つなげてもらったありがたみとかも全然理解できていなくて、毎日 その言葉たちに生かしてもらっていました。

事故後初期の頃にも、その高山の急性期病院で担当医から言われた私の後遺症の状態はずっと悪かったそうで、「今後意識が戻ったとして、もしリクライニングではない車椅子に座れるくらいまで回復したとしても、自分の意思で何かを発言したり行動したりというところまで回復するのは、難しいでしょうね。」と言われていたそうです。

母も、「もうよもぎとは、コミュニケーションがとれないかもしれないんだな」と覚悟を決めたそうです。

そんなところから、1年半後にはここまで回復させてもらえてきて、事故後当初の診断時に言われたような未来とは全然違う今日を迎えられたことを、多分ずっと近くで見てくれていた家族が1番信じられない気持ちだと思うし、

自分でも去年は、「退院しちゃったら、そこから先は一生施設とかで生きていくのかな。この先 生きていかなきゃいけない年数は、残りどれくらいあるんだろう・・・?」と、すごく悲しい気持ちで未来を考えていたことを覚えています。

今みたいな未来が待っているとは、到底、全然想像できていなかったです。人生って、1年でこんなにも変化するもんだなあって、自分のリアルな体感として実感させてもらいました。

祈ってくださった皆様への感謝を、これからもずっと忘れずにいます。

岐阜高山の急性期病院での2ヶ月間と、東京赤羽の回復期リハビリ病院での6ヶ月間の入院中、そして退院後から始まった社会復帰までの現在進行形の道中、家族や友人たちを始め色々な形で支えてくれたり祈ってくれた存在のおかげで今があることをずっと胸に置きながら、これから先も 生きていきたいなと思っています。

いつか皆様に直接顔見て感謝伝えられる日がくることを、願っています。


 

今回のことでお世話になった医療関係者の方々初め、事故きっかけに交流が復活した遠方の方々も、今も楽しく元気に幸せに過ごされていることを祈っています🙏

またお会いできる日を、ずっと楽しみにしています。

こんな時代だから、なかなか今は気軽に遊びに来てねとも言いづらいけど、いつかきっと、石垣島の浜でも、一緒に語らいましょうね。

ありがたいことに、最近新たに出会う方々がまた増えてきているんだけど、新たな関係性の人、つまり事故後の私しか知らない人との関係性の築き方って、すごく難しいです。悲しい思いをすることも、悔しい思いをすることも、自分の言動にびっくりしてしまうことも、毎日沢山あります。

ぱっと見、この障害というのは分かりやすく見えないし、多分受傷前の私のことをよく知っていてくれたり 受傷後の私とよく関わっていてくれたりする方も、頻繁に会えていない方からしたらそんなに具体的な症状は理解しづらいと思うし、日頃から一緒に過ごす時間が長い家族や友人や仲間や先輩たちくらいしか、今の私にとっての難しいことや、以前の私と明らかに変わっていることというのは、掴めていないんじゃないかなと思います。

なので、なにかしら、今の自分のことや高次脳機能障害の症状のことをもっと具体的にどこかに文字にしてパッと伝えやすい形にした「今の私の説明書」的なものを作らねばいけないなとも思っていますが、まだなかなかできずにいるので、白川行くまでには、きっと何か形にします。

 

ではとりあえずご報告記事はこれで!

お世話になっていた皆様、また皆様の声が聞きたいなって思い返している時間が、私は今も変わらず ずーっとあるので、朝夕の海散歩中とかでもよければ、ぜひお話したいです。

東京や岐阜にも波の音とか届けるので、退勤のタイミングとかにでも、お時間あるときにはぜひ通話繋いでお話しませんか🙇‍

ブログのお問い合わせ欄とか、SNSのメッセージとかから、ぜひご連絡ください🙇‍ めっちゃ喜びます。

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みなさまの幸せとご活躍、ずっと祈ってるし、また会えることを楽しみにしています☺️お互いに、頑張りましょうー!

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ABOUTこの記事をかいた人

1995年、沖縄県石垣島生まれ。大学進学のため上京後、休学して岐阜県白川村に移住。 ソーシャル大学、こども劇団、コミュニティスペースの立ち上げ・運営、ローカルマガジンの発行、地域内外でのイベント企画・開催、観光用SNS運用、村役場、農家さん、民宿、飲食店、学童、社協などでのお手伝い、移住定住事業のサポートなどを経験させてもらいました。 2020年、交通事故・入院生活を経て帰島。脳の障害と軽度の身体障害が残り、色々なことがうまくできなくなり、再挑戦・再獲得を積み重ねる日々。脳がうまく働かなくなった今だから、初めて気づけたこと、学べた価値観を大切に、これからも1つずつ積み重ねて生きていきたいです。 踊ること、撮ること、書くことが好き。ヒトを含む動物が好き。肩の力を抜いていこ〜