今日リハビリの合間に、デイルームという休憩スペースの窓辺の席で紅茶を飲んでいたら、窓辺の木漏れ日がすごく綺麗で、「あぁ、カメラが欲しい。この美しい記憶を記録したい・・・。」と思った。
ただの陽の光なんだけど、窓ガラスを通して見る木漏れ日というのは、直接見る木漏れ日とは、またちょっと違った見え方のような気がする。なんだか芸術になるよね☺️
こういう時間の移ろいに気持ちを向けられて、ゆったりと幸せを感じることができるのも、命あってこそだ☺️
ありがとー!
深々と、命、素晴らしや。
あと今日の体のリハビリに入ってくれたPTのS先生と、外をお散歩しながら、私が事故当時 暮らしていた岐阜・白川の話をしていて、リハビリ後にふと思い立って当時の写真を探してみたら、「やまよの家」のFBページで 当時の自宅周りの写真を見つけたよ。白い世界はすんごく綺麗で、そして厳しくて、心身共に鍛えてもらうのに とても適した環境だったな・・・。
あと今日も、同室のおばあちゃんのでっかい独り言の内容や、ナースさんとの会話の噛み合ってなさ過ぎ具合が、とても面白かった。この記事書きながらも、何度か吹き出したよ☺️
平和な笑いを、ありがとう。
神は偽りの存在かもしれないが、《地獄で嘘をついて励ましてくれる存在》が必要な場面も確かに存在するんだろうね
— すあま (@suama13) August 28, 2020
△ 嘘や猫撫で声(本気で向き合う姿勢や相手への誠意が感じられない声)は嫌いだし、「この神様を信じています」という信仰も、私にはないけれど、「嘘をついてまで励ましてくれる存在が必要な場面が、確かに存在する」というのは、とても分かります。「嘘をついてでも、相手の未来の幸せを強く信じて、祈って、その相手に力や言葉を与えることができる人」というのが、私はとても好きだし、自分もそう在りたいんだ。
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