読んでると楽しく勉強になる、佐々木ののかさんが書いていた文章に感銘を受けたのでブログでもシェアするね。
福祉とか介護の在り方について、興味がある方は読んでみてね。
家族は家族を介護しなければいけないのか――認知症介護から知った「家族とは何か」のひとつの答え【読書日記23冊目】
(以下 記事中から抜粋)
家族がなぜ介護をするのかという議論の前に、認知症の歴史に軽く触れておきたい。かつて(といってもそう古くはない1960年~1990年代にかけて)、認知症患者は、治療不可能な存在として身体拘束や投薬に偏った処遇を受けていた。
「現代の姥捨山」と専門家が厳しく批判した医療機関の処遇は徐々に社会問題化し、2000年代からは認知症患者の「その人らしさ」や個人の「人生」を大切にした「パーソンセンタードケア」が唱えられ始める。
「パーソンセンタードケア」に加え、それまでの「痴呆」という名称が「認知症」に改められ、「痴呆になると何もわからなくなってしまう」というかつてのイメージが誤りであると公言されることになり、これらが「新しい認知症ケア」と呼ばれるようになった。
家族がなぜ介護をするのかという議論に関しては、「日本では誰かが家族を『ケアしない権利』が想定されておらず、『ケアを代替・分有する資源』も乏しければ、そうした資源に『アクセス』する制度も整っていない」という「介護の社会化における問題」や、「家族介護は最善だ」という「家族介護規範」などが挙げられてきたが、本書で扱うのは、上野千鶴子氏の「ケア責任」という考え方である。
「ケア責任」とは、「介護保険制度を最大限利用している場合でも、要介護者にとって何が適切なケアか、要介護者が今何を望んでいるか判断する重要な責任が家族に付いて回ること」だ。
身体拘束や投薬など“監獄”のような従来の処置ではなく、その人らしさを大切にする「新しい認知症ケア」の時代にあるからこそ、様々な関わりの中で「ケア責任」が強化され、認知症患者にとって家族が代替不可能な存在に“なっていく”。それが本書の結論として第1章に書かれている。
家族は家族を介護しなければいけないのか――認知症介護から知った「家族とは何か」のひとつの答え【読書日記23冊目】
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