以下の文章は、2020年1月に交通事故をしてから、救急搬送してもらった岐阜高山の急性期病院での意識不明期間が終わり、東京のリハビリ病院に転院してきた頃、Facebook上で投稿した文章です。

後日、いつか見返せるようにとブログ上にも転載しました。(アイキャッチ画像は、この頃に赤羽リハビリテーション病院の庭で家族が撮って送ってくれた写真です)

黒文字の部分が当時書いた文章で、黄色の枠組内は後日ブログに転載するときに追記した補足内容です。

1月に岐阜県白川村で単独の交通事故をして、頭を強打したことで「外傷性くも膜下出血」をおこし、新しいことが覚えられない脳の障害(高次脳機能障害)を発症しました。こちらで闘病記を残します。

記録までに、事故の状況や原因などは、自宅の近くで田舎なので目撃者がおらず、当時の環境も雪深い時期に夕方暗くなってきている時間だったので、スリップ跡なども確認できず、不明です。

環境的に、緩やかなカーブを曲がりきれなかった感じなので、雪にタイヤをとられてハンドルの操作ができなかったのではないかと思います。

診断名としては、外傷性くも膜下出血以外に、びまん性軸索損傷肺挫傷などがありました。

私が負った後遺障害「高次脳機能障害」の症状としては、記憶障害以外に、遂行機能障害、注意障害、社会的行動障害、易疲労性、複視、など色々あり、それらの困難から生まれる二次障害もたくさんありますが、当時の私にとって1番大きなショックは「なんでもすぐに忘れちゃう」「目の前の相手のことをなにも覚えられない」ということだったため、記憶障害のことしか書けていませんね。

記憶障害については、新しい記憶ができない”短期記憶障害”で、受傷前の日常の記憶はほとんどダメージを受けていませんでしたが、たまにしか合わない人のことや、事故の少し前(1ヶ月以内くらい)に初めて出会った人のこと、経験したはずの出来事などは、何も覚えていませんでした。

身体機能についても書かれていないので、追記します。

転院前、高山の急性機病院にいた間は、肺挫傷の影響で人口呼吸器を付けていたので、この文章を投稿した頃はまだ自発呼吸はうまくできず、喉に気管カニューレという呼吸の補助器具をつけて、少し大袈裟にヒューヒューする音を立てて息をしていました。この頃は、声帯麻痺の影響なのか発声も弱かったので、口での簡単な会話が成り立つようになってからも、手元のノートに書き殴っていた雑な文字と、細い頼りない発声で喋るわずかな単語で、コミュニケーションをとっていました。

体全体に失行の症状があり、足には強い痺れと運動麻痺があったため、自立歩行はできず車椅子生活で、脳疲労による強い眠気に耐えられず、1日の多くの時間をベッドで過ごして、車椅子でもうつらうつらして過ごしていました。

今は東京赤羽で、リハビリ病院に入院して自分でできることを増やしています。もともと運転センスはなかったので、車から離れるいいチャンスだったと捉えてます。入院(たぶん初体験)したから出会えた素敵なご縁も沢山沢山沢山ありました。

相変わらず人にはめちゃくちゃ恵まれています。

誰も事故で傷付けなかったのと、性格まで変わらなかったことと、幸せな記憶が沢山残っていることに救われています。体はとても健康ですが、心が状況整理にまだ追い付いていません。

体はとても健康というのは、脳と肺以外の内臓は何も受傷してませんという意味ですね。

外傷でも脳疾患でも、脳損傷を受けると、性格がガラッと変わってしまう人は多いそうです。攻撃的になったり、人間不信傾向になったり、別人みたいになっちゃうこともあるそう。私は受傷で色々変わってしまったとはいえ、大事にしたい気持ちとかが変わらずに残っててくれて、ただのラッキーだと思うけど、本当にありがとうと思っています。

この頃は、はっきり自覚できていた自分の異変、「何も覚えていられない」「歩けない」などの症状以外にも、外観的にも事故前との変化が顕著で、かなり斜視でした。まっすぐ前を向いているつもりなのに、両目の黒目はそれぞれ全然違う方向を向いていて、その変化をまだ自分で受け止められずにいました。

目もあまり見えていなかったので、使い慣れたパソコンやスマホが常に近くにあったおかげで、当時のリアルタイムの感情を書き残すことができていました🙏

私の意識が覚醒し出したときに、すぐにデジタル環境を整えてくれた母に感謝です🙇‍(事故当時、私の荷物に入っていたスマホなどは、ガードレール衝突の衝撃などでバキバキで、再起不能だったそうです )

出来なくなったことばかり気になるので、前向きに、両親や今までお世話になった人たちより早く死なないように、頑張って強く生きます。

記憶障害は時間の流れに委ねるとして、(時間が大きな味方になってくれるそうです。とても勇気づけられます。若くても悪いことだけじゃないですね。)まずは支えなく自分で歩けるようになりたいです。

「脳の回復に必要な条件は、1番に純粋な時間の経過」という言葉は、母が高次脳機能障害に関する本を片っ端から読んでくれていて見つけた山田規畝子さん(高次脳機能障害をもつ当事者で、元整形外科医さん)の本で書かれていて、私も入院中に教えてもらったその言葉を、宝物のようにいつも病室やスマホのメモのよく見る場所に書いて、何度も何度も確認していました。

「この訳わからん世界には、いつか必ず終わりが来るから大丈夫。」と、その言葉にすがるようにして、日々を過ごしていました。

今頃だけど、希望をくれた、山田 規畝子さん(元整形外科医で脳梗塞を起こして高次脳機能障害になったセラピストさん)の言葉を。

2020-07-01

周りの入院患者さん(当たり前ですがリハビリ病院も高齢の方が多かったです)と比べて、私はもっともっと長い時間、残りの人生が残っているんだな、こうなっても、家族に迷惑をかけ続けながら、まだまだ生き続けなきゃいけんだな・・・

と、24歳でこんな状態になってしまったことを、当時はとても悲観的に受け止めていました。

私の場合は、受傷後2年が経過するくらいまでは、感情のコントロールなどもうまくできなくなっていたので、目に見えづらい苦しさの中で、毎日を生きていました。

慣れない東京の病院で8ヶ月間、周りの人に恵まれたおかげで、逃げ出さずに最後まで頑張れた入院生活でした。お世話になりまくったリハビリスタッフの方々にも、看護師さん方にも、ケアワーカーさんにも、患者さんの仲間にも、退院後もずっと大切に関係を続けたいと思う存在が、沢山できました🙏

自分の感情・言動などをうまくコントロールできなくなったり、相手の気持ちへの配慮などができなくなってしまう症状を、社会的行動障害といい、これも脳損傷の後遺症として残りやすいそうです。

例えば、この頃の私の場合は、主治医との定期的な面談(家族同席)のたびに、愉快な友人に似てるという理由で爆笑していました。(超失礼な感じで、先生の顔を見るたびに吹き出してた)

入院生活が長かったので入院ぼけしていたというのもあると思いますが、退院して島に帰ってきてからも長らく、場に応じた行動をとることなどが出来ず、周りの人が想像もしていなかっただろう見当違いな言動をしてしまって、近くにいる人を驚かせたり、困らせてしまうことを繰り返しました。

社会復帰したての頃は、自分自身でも予想していなかったようなショッキングな出来事が日常的に発生して(私は簡単な未来予測も全くできなかったので、自分の中では思いもよらないようなびっくり事象が日々起こった)毎日疲弊してしまい、その度にとても悲しかったのを覚えています。

視覚・聴覚情報に対する認識の歪みもあり、よく道の段差や傾斜に気付かず思い切り転んだり、どこかから落ちたり、勢いよく建物や障害物にぶつかったり、人とのコミュニケーションの中でも、うまく聞き取れなかったり理解できなかったり、間違った解釈をして結果的に誰かに迷惑や苦労をかけてしまったり、というのが日常的におこりました。

相手が話す文脈や書かれている文章の理解に関する障害も、かなりあったように思います。

生かされた意味はお世話になった人たちを悲しませないためだと思います。自分が泣く方が良いのできっと自分で選んで生きてるんだと思います。

今も白川でお世話になった沢山の方々や、教えていたかやっこ劇団の子どもたちの頑張っている姿、石垣の友達たち先輩後輩たちからの連絡、島の恩師や家族の存在に強く支えられています。

新しいことが覚えられないので仕事復帰は難しいと思いますが、社会復帰をめざして、あまり先のことを心配せず、今は目の前のリハビリを頑張ります。最初はまだリハビリ病院みたいに理解あるところじゃないとパニックになると思います。

こう書くと、交通事故の後遺障害としては記憶障害なんてとても軽く聞こえるけど、この頃は本当に数秒前のことも抜け落ちていったので、仕事や社会生活どころか日常生活さえも、目の前の人との会話さえも、スムーズに進めるのは困難で、生命活動にも明らかに支障がありました。

これまでお世話になったみんなの幸せをささやかながら祈ってます。

きっと乗り越えられない試練はふってこないはずですよね。魂の修行、引き続き頑張ります💪

お見舞いの品やお金を贈ってくださった皆さんに、心から感謝します。

石垣の中学時代の恩師から人生楽しんだもん勝ち!と言われました。そう思えるように前向きに強く生きます。

また今回の事故をきっかけに、同じような辛い経験をした話を友人や先輩たちから聞くことが増え、本当の意味で痛みを知って人に寄り添うことができてきたのかなと思っています。

この闘病記が誰かの糧になることを祈って。


(後日追記)

事故を経験してから、こういう、怪我や病気や困難を経験してきた人とか、何かの生きづらさを抱えて生きてきた人(身近な存在がそういう経験をしてきた人なども)が寄り添ってくれることが、何度も何度もありました。元気な頃の私だったら、言ってくれなかったことなのかもしれないな、とも感じました。きっと全部に、なにか意味があるんだね。

4月に書いた近況報告を読んで今改めて思うこと。

2020-07-22

( ▽ 当時の投稿を追記。コメント欄を見返して胸に迫るものがありました。 )


(以下、2022/7/2に追記)

いま、受傷から2年半が経ち、退院して社会復帰してから1年が経ちました。やっと、だいぶ冷静に、当時の状況や今日までの歩みを、思い返せるようになったなと感じます。

同じく高次脳機能障害を抱えている方や、脳疾患由来の障害を持つ方、発達障害など先天的な脳の不具合と共に生きてきた方、またそんな存在が近くにいるご家族さまなどへ、

それから、高次脳機能障害者のリハビリを担当されているリハスタッフさん、医療関係者の方々、就業支援や社会復帰サポートなどの福祉サービスを提供してくれている方々、脳の専門家のみなさまへ、

もしこの記事が届くことがあったなら、脳損傷を受けた当事者が感じた、脳の回復についての感想を書き残すので、よかったら読んでください。


私自身の体験や、今まで私が出会ってきた高次脳機能障害を抱える当事者さんたち(病気・外傷・感染症など発症原因を問わず)から聞いたことで共通していたのが、

高次脳機能障害や脳血管障害などの脳の急な不具合は、時間の経過とともに、ゆっくりでも確かに、緩和されていくものだということです。

それは脳の自然な回復力と、「壊れた脳も学習する」ことの表れだと思います。

再生するための能力も失われたと思えるような大きなダメージを受けても、時間の経過とともに、実際にゆっくりでもちゃんと回復してくるから、脳ってすごいなと実感しています。

人間の脳、専門家の方でもまだ分かってないことが沢山あるそうで、きっとこれから分かるようになることもたくさんで、面白いですね。

大学生の頃、選択授業で脳科学とかの講義がありましたが、当時は全く興味が湧かず、眠いだけだったのを覚えています。今はとても興味を持っています。

(今はまだ易疲労性の症状がしっかりあり、文字を読み始めた途端すぐ眠くなっちゃうので、個人としての勉強や読書は、一旦あとまわしにしています。今は社会復帰に精一杯ですが、もうちょっと脳が本調子になって、生活や仕事に余裕が出てきたら、新しいことを学ぶのも、楽しくチャレンジしていきたいです💪)

高次脳機能障害の症状や回復の記録は、#高次脳機能障害 のタグなど活用すると、見ることができます。入院中の記事とかは、文章もめちゃくちゃで読みづらいものも多いと思いますが、興味を持ってくれた方がいたら、よかったら。

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ABOUTこの記事をかいた人

1995年、沖縄県石垣島生まれ。大学進学のため上京後、休学して岐阜県白川村に移住。 ソーシャル大学、こども劇団、コミュニティスペースの立ち上げ・運営、ローカルマガジンの発行、地域内外でのイベント企画・開催、観光用SNS運用、村役場、農家さん、民宿、飲食店、学童、社協などでのお手伝い、移住定住事業のサポートなどを経験させてもらいました。 2020年、交通事故・入院生活を経て帰島。脳の障害と軽度の身体障害が残り、色々なことがうまくできなくなり、再挑戦・再獲得を積み重ねる日々。脳がうまく働かなくなった今だから、初めて気づけたこと、学べた価値観を大切に、これからも1つずつ積み重ねて生きていきたいです。 踊ること、撮ること、書くことが好き。ヒトを含む動物が好き。肩の力を抜いていこ〜