弱っていく命の火を見つめる夜に、思うこと。

荻町の祭りが終わり、鳩谷の祭りが始まった。

空気が冷えて、山にも色がつき始めた。

今年も冬がやってくるなあと、静かに感じながら、粛々と祭りを迎え、こまごまとした業務をこなしていく日々だ。

荻町1日目の夜は、福岡、新城、名古屋、高山、岡山、神奈川の友人たちが遊びにきてくれて、我が家で色んな話をした。

たまにしか会えない大切な人たち。居心地の良い人たちと一緒に過ごせる時間を、幸せだなと感じる夜だった。

朝まで語り明かし、早朝にみんなを家に送り届けた後、なんの気なしに、いつもお世話になっている村の人からの電話を受けた。

そこで、私にとって第二の父のような存在だった旦那さんの命が、もうわずかかもしれないという知らせを受けた。

本当はその日、朝からみんなを案内する予定だったけど、寝ている友人を起こして、勝手に予定を変更させてもらうことを謝って、急いで準備をして、病院に向かった。

駆けつけた病室で寝ていたおじちゃんは、かなり様子が変わっていて、もう意識はなくて、酸素マスクをつけてもらって、苦しそうに大きく呼吸をしてた。

ああ、と。

何も言えず、涙をこらえることもできず、手をさすった。

かぼそく、ゆらゆら揺れる命の火を、少しづつ灯りを弱めていくおじちゃんの姿を、みんなで見つめた。

 

人は、あっという間に弱ってしまう生き物だということ。

言葉が届くうちに、愛や感謝を伝えなきゃいけないこと。

私は、何度経験したら、学ぶんだろう。

 

白川にきて4年。ここ最近、お世話になっていた先輩方が、随分と立て続けに、亡くなってしまった。

いつも、最後までお世話になってばかりで、何も還せなかったことが申し訳なくて、悲しくて、寂しくて、自分の未熟さや無力さに、心が苦しくなる。

命と向き合う時間、人の最後に立ち会う時間は、気持ちがすり減るもので、別れの受け流し方というのが、未だに分からない。

 


 

夕方、病院を出て、まだ昨夜のみんなの香りが残っているお家に、1人で帰ってきた。

ちょっと胸がキュッとしつつ、静かな時間に押しつぶされないように、やるべき仕事をこなした。

人間は孤独なのだということを、最近幸せすぎて忘れていたな、と思った。

 

住み開きを閉じてから、もうすぐ4ヶ月が経つ。

1人暮らし、そろそろ終えてもいいかもしれないなあと、何となく思った。

 

こんな時にも、日常は当たり前に流れているもので。夜は祭り会場に戻って、舞台で民謡を踊った。賑やかな三味線と笛の中でわいわい踊って、挨拶回りをして、獅子舞を見て、子どもたちに着付けをして、演芸のステージを終えて、その足でまた病院に戻った。

高校の舞台祭の時も、そうだった。家族が亡くなって、ばあばが泣き叫んでる中、私は市民会館に行って、クラスの仲間達とわいわい舞台をして、その足で火葬場に戻って、骨上げが終わった後は、またクラスの打ち上げにもどった。

感動に浸るみんなの空気の中で、ハイテンションに感謝の言葉をかけてきてくれるクラスメイトを尻目に、ぐるぐると色んな思いがよぎったのを覚えてる。

 


 

身近な人の死や、病気や、災害は、自分の生き方を変える大きなきっかけになるように思う。

最近、そういう出来事が重なっていて、人生についてよく考える。

昨夜、信頼している人生の先輩がかけてくれた「何か決断に迷ったときは、自分という存在を、遠い場所から、客観的に見てみるといいよ。進むべき道が見えたりするから。」という言葉を、反芻しながら。

これからの自分の生き方とか、今いるべき場所とか、もういちど俯瞰的な視点で、ゆっくり考えてみようと思う。

今日は、取り留めのない、日記やね。

さあ、明日も祭りだ。

懐かしい、しらみずの滝へと続く道。行きたいなー。

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