初対面の家族と父の遺体を囲んだ小田原のあの夏の日から、3年が経った。

なんだかシリアスなタイトルになってしまったけど、今まで身近な人の死についてきちんと文字で振り返ったことがなかったので、今日は書いてみようと思う。

 


 

3年前の今日、7月8日に実の父が亡くなった。

白川村に赴任してすぐの頃、初めての大きな仕事である「Cinema Caravan in 白川郷」という野外映画祭の開催期間中だった。

その夜は、村内のキャンプ場を会場に、お洒落なグランピングテントや照明、音楽、バーカウンターがある素敵空間を演出して、普段の村の景色とは別世界のような幻想的な時間が流れていたのを覚えている。

私はスタッフとして食事を盛り付けたり、お客さんと話したり、諸々の補助をしたりと走り回っていた。そんなイベントの真っ只中で電話が鳴って、何となく変な感じがしたので、仕事の合間に会場を抜け出してさっと掛け直した。

 

その電話口で、海外に住んでいる父の兄(つまり叔父)と初めて会話をして、もう何年も会っていなかった父の突然の訃報を聞かされた。そこからの記憶は曖昧だけど、そのまま自分の車の中にもどり、なぜだか突然壊れたように涙が出て、泣き叫び続けたのをぼんやり覚えている。今になっても、あの時なんで自分があんな状態になっていたのかは分からない。

 

父は発見されるのが遅かったので、遺体が本人かどうかの確認を家族がする必要があるとのことで、ちょっと悩んだけど、私はその場で仕事の都合をつけさせてもらって、1人小田原に向かった。

翌日到着した小田原で、父の母(祖母)と兄(叔父)と合流した。私の感覚的には「初めて会う父方の家族」だったけど、私の記憶にないだけで幼い頃に何度か会ったことがあるらしく、実質は初めてましてじゃなかった。

私との再会に涙する小さな祖母と、父とそっくりな顔と雰囲気をまとった叔父さんを前に、不思議な感情に包まれた。

 

父との記憶

もともと私の両親は、沖縄の小さな島で、ヒッピー的な暮らしをしている人たちだった。いまにも台風で飛んでいきそうな古い木造家屋に住み、五右衛門風呂の中で私を生んで、豊かな自然と動物に囲まれた農的な生活をしていた。

時期が定かではないけど、確か私が幼稚園に上がる頃くらいに、父のアル中が酷くなり、色々な人に迷惑をかけるようになってきたので、母は私を連れて島内の新しい家へと引っ越した。

もともと両親は夫婦別姓主義で婚姻関係になかったので、離婚や苗字変更などの手続きはなく、別居して私に起こった変化と言えば、父と顔を合わせる機会がほとんどなくなったことくらいだった。私は母っ子だったので、父との別れを寂しいと感じた記憶もそんなに無く、母のストレスが軽減されてよかったくらいに思っていた気がする。

私が小学校高学年の頃くらいに父が島を出ていってからは、自分の生活が忙しくなったこともあって父のことを思い出す機会は減り、たまに「よもぎ愛してるよ」と震える字で書き連ねられた重たい手紙が届くのを読むくらいだった。

その後、生前の父と会ったのは、多分2回だけ。私が所属していた島の子ども演劇団体の東京公演のとき、客出しで一瞬喋ったのと、大学進学で上京した春に父から連絡を受けて一緒にランチを食べたときくらいだ。

その2回とも、やせ細った父の姿に悲しくなったし、震える手や、食事を一切食べられない様子がしんどかったのを覚えている。

父の人生を想う

父は若い頃、学生運動や自主映画製作なんかを中心になってやるような存在で、社会問題や環境破壊や福祉への関心が高い人だったそうだ。

まだ父が石垣で障がい者支援の仕事をしている頃は、私もよく一緒に職場についていったり、独居の方へのお弁当配達を手伝ったりしていた。特別支援学校の子どもたちの就労支援や原発の反対啓蒙活動などを頑張っていた姿も覚えている。

お酒に依存していく父の姿は怖かったけど、いつも弱者の味方で正義感が強い人だったのは子どもながらに分かったし、どれだけ酔っ払っても家族や他人に手をあげることは絶対にしない人だった。

父がいつも貧乏だったのは、ビジネスセンスが無かったのはもちろんだけど、「自分のため家族のため」の私利私欲が全然ない人だったのもあると思う。いつも必死に、誰かの暮らしを守ろうと活動の資金繰りに駆け回っている姿が印象的だった。まあこれは娘からの視点で、母から見た父の姿はもっと違ったものだったとは思うけど。

そんな父に圧倒的に足りなかったのは、多分、自分が立ち向かおうとしていることを抱え切れるだけの強さや、沢山の人の思いを背負えるだけの精神的なキャパなんだろう。

ラブアンドピースを大事にしていた人だったのに、自分自身の心の弱さに向き合えなかったことで、大切な家族・同僚・友人からの信頼を失って、沢山の人を傷つけた。父を大事に思っていた周りの人たちが何度も立ち直るチャンスをくれたのに、父は変われなかったし、向き合うことから逃げた。

とても悲しい人生だなと思うし、なんて弱い人だろうと思うし、私は絶対にそんな生き方をしないと、強烈な反面教師として父の生き様は私の中に残り続けている。

父の日記を読んだ

初めて小田原の駅に降り立ったあの日、叔父たちと一緒に遺体安置所に行き、久しぶりに父と対面した後、父が生前1人暮らしをしていたというアパートの掃除に向かった。

その日の小田原は猛暑で、セミがうるさくて、叔父と2人で汗をダラダラかきながら無言で遺品の整理をしたのを鮮明に覚えている。

そこで、生活保護の書類や、病院の書類、精神科の書類、沢山の薬、通帳、闘病日記、父がボロボロの心身で最後まで続けて居たのであろう原発の仕事の書類、友人からの手紙などを読んで、悲惨な部屋の様子を見て、父の晩年の暮らしぶりが伝わって来て、父の生涯を思って、なんとも言えず虚しくなった。全てが悲しくて、辛くて、当時の私にはとても抱えきれなかった。

ただ、その時のアパートのご近所の方々がとても親切で優しくて、色々と助けてくれて、めちゃくちゃ救われたのを覚えている。その一帯はかなり貧しい暮らしをしている家庭が多い感じだったけど、みんなが助け合って生きているのが伝わってきて、今の日本から消えかけているような人間臭さや人情味を感じて、何だか凄く、胸に迫るものがあった。

自分の生きている世界の狭さを、久しぶりに感じた1日だった。

 

その後は、色々な手続きをして、小さな葬儀をして火葬をして骨を集めて、色々な人に連絡をして、最後の夜は父の旧友が集まってきて皆でゆっくり父の話をした。

父の友人たちはみんなとても優しい人ばかりだったけれど、「よもぎちゃんの存在が彼の生きがいだったんだよ」とか「この遺品は娘のあなたが持っていきなさい」とか、ほとんど縁を切っていた人の人生を一方的に浴びせられるのは、不思議な体験だった。

 

父の骨は、持って帰って、彼が愛した石垣島の海に散骨した。母と2人だけで、ひっそりと蒔いた。「やっと島に還って来れて、よかったね」と言いながら。

父が死んで私に起こった変化は、小田原にいる祖母や、海外にいる伯父家族と、定期的に連絡をとったり会ったりするようになったことだ。父方の家族はみんな、「彼は自分の死を通して私たちとよもぎちゃんを繋いでくれた」と私との縁を大切に思ってくれていて、私もこれが最初で最後の父への親孝行のような気がして、残してくれた縁を大切に続けていこうと思っている。

父は父。私は私。

父の死後、他人から父の話を聞いたり、父が書いた手紙や日記を読んだ時に、自分と似てるなと感じる節が多々あって怖くなることがある。血の力というのは凄いなと思うけど、父のいいところも悪いところも、私はしっかり受け継いでいるし、人生への考え方や葛藤の仕方もとても似ている。

これはたまたま、自分の大学進学が決まった時に初めて知ったことなんだけど、どうやら父も早稲田出身だったそう。しかも休学して、その後中退して、逗子で地域活性の活動とかフェスの企画運営とかしてて、あちこち旅した結果、沖縄に行き着いたらしい。

私、めっちゃ似たような道進んでるじゃん・・・!って驚愕した。

それでも、私は父ではない。父のような悲しい人生は歩みたくないし、側に居てくれる人を1番に大事にできにるような生き方をしたいと思っている。

世の中を良くしようとか、人を幸せにしようとか、とても大切なことだけど、それは自分自身の世界を幸せにできて初めてできることだと思う。

自分すら幸せにできないで、自分の周りの人すら幸せにできないで、世界を幸せにすることなんてできない。

私もたまに、使命感や責任感に呑み込まれて自分の外側のことにばかり頑張ってしまいがちになる癖があるけれど、意識的に、定期的に足を止めて、自分の内側としっかり向き合う時間を持ちながら、自分の幸せが何なのかを確認しながら、生きていきたい。

父の人生は、パラレルワールドの自分の人生なのだと思うことにした。

私はちょっと前まで、1人で死んでいった父の生き方を全面否定していたんだけど、ある時ふと、自分から切り離せない家族という存在を否定し続けて生きていくのって、しんどいなと思った。

だから、父の人生は、私自身にも起こり得る人生なのだと思って、そうならないように、父の生き方を教訓にして、自分が大きなミスをしないように、幸せに生きるためのコンパスにしようと思った。

娘にこんな風に思われてもしかしたら父は悲しんでいるかもしれないけど、自分がやっちゃったことだから、仕方ないよね。でも、今私は、本当に素直に、感謝できるようになったんだ。

父の存在なくして、私は母の元に生まれることはできなかった。父が沖縄を選んでいなければ、私には大切なホームが無かっただろうし、もっと肩に力の入った人生だっただろうと思う。

あなたが私を島で育ててくれたから、私は大好きな人も大好きな場所も大好きな挑戦も沢山沢山見つけることができたよ。緑豊かな、命豊かな場所で、愛を持って育ててくれて本当にありがとう。幸せを沢山くれて、ありがとう。

あなたの分も、目の前の幸せを一つ一つ噛み締めて、人生を楽しく生きようと思うよ。

まだずっと先のことだと思うけど、またいつか、2人でゆっくり話せたらないいなと思う。

それまで、空の上で、マヤやインカと一緒に、沢山美味しいものを食べて、好きな音楽を聞いて、お酒に頼らず、何の心配を抱えることもなく、元気に笑って過ごしていてくれたら嬉しい。

あなたの娘は、あなたの死を通して、自分の内側に向き合うきっかけをもらい、3年経った今、随分と自分の足で立てるようになってきたよ。いつか一緒に飲める日まで、のんびり待ってて下さいな。

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ABOUTこの記事をかいた人

沖縄県石垣島出身の早稲田大学生。地域づくり・教育について現場で学ぼうと、19歳のとき大学を休学して岐阜県白川村に移住。 石垣島と白川村を行ったりきたりしながら、人がよりよく生きるための学びの場づくりを模索・実践中。踊ること、対話することが好きです。