休学4年目。地域おこし協力隊の任期を満了して、村の小さなベンチャー企業に就職しました。

ここ最近「よもぎ東京戻ってきてるの?協力隊の3年終わってどうしてる?」という連絡をたびたび頂くので、そろそろ私自身の近況も書かねばと思い、久しぶりのブログ更新です。

今日はしばらく会っていない方々にも伝わるように、ちょっと時間を遡って、島を出た4年前から今に至るまでの経緯をざっと振り返ってみようと思います。

私が何を考えて今この場所にいるのか、これからどこに向かって歩いていきたいのか。日頃から話をしている方々は聞き飽きたことばかりかもしれませんが、少々お付き合いください。

4年前、石垣島から東京へと上京。

2014年、高校を卒業した18歳の春に、私は地元石垣島の高校を卒業して早稲田大学に進学しました。

初めての東京生活は新鮮で、面白い人や場所との出会いが沢山あり、大学やバイト先で過ごした日々もとても刺激的なものでした。

その一方で、今まで島で打ち込んで来た活動や人間関係が1からスタートになり、自分が何者でもない感覚や、居場所が定まらない感じが不安で、夢中になれるものを探し求めていたこともよく覚えています。

大学の勉強もこれといって面白いものが見つからず、このままこの場所で4年間を過ごしてしまっていいのだろうかと焦り、当時から関心のあった「地域」「教育」「場づくり」などのキーワードを中心に、色々な場に顔を出していました。

そんな悶々と自分探しをしていた時期にご縁があったのが、岐阜県の白川村だった。

当時よく日本仕事百貨さんが運営する「リトルトーキョー」というカフェバーに遊びに行っていて、そこに集まるすてきな感じの大人たちに、仕事や人生について話を聞かせてもらうのが楽しみでした。

その日も、ふらっと友達とリトルトーキョーに立ち寄ったら、たまたま「しごとバー」(いろいろな分野で働いている人をゲストに、お酒を飲みながら話をするイベント)が開催されていて。

その夜のテーマが「白川村ナイト」で、当時白川村で先駆けて「地域おこし協力隊」として活動していたプレイヤーの人たちがゲストとして来ていたんです。

当時の私は「世界遺産 白川郷」という場所のことも「地域おこし協力隊」という仕事についても無知でしたが、その場で出会った白川村の人たちの雰囲気や、地域を語る言葉になんだかとても心惹かれてしまい。

そこから色々調べる中で、「ここなら自分の学びたいことを現場で実践できる気がする。興味のある仕事が自分に合っているのかどうかを、確認できそうだ。」と思って、直感だけを頼りに、見ず知らずの世界に飛び込んでみたんです。

とはいえ、採用面接の時には

いつか地元の石垣島で地域づくりや教育に関わりたいと思っているので、そのための手段を白川村で学びたいです。

と、しょっぱなから白川村に定住する気がない旨をはっきり伝えてしまっていたし(地域おこし協力隊の制度は普通は任期後の定住を目標に置いて活動するもの)、周りの応募者は立派なキャリアを持った社会人ばかりなのに比べ、私は何の経験もない大学生。倍率も高かったので、その後採用の連絡をもらったときはかなりびっくりしました。

そこからは、慌てて大学に休学届けを提出して、大学1年生を終えた3月にバタバタと白川村に引越しをしました。

19歳の春、白川村の地域おこし協力隊として着任。

協力隊仲間と。いい先輩ばかりだった。(淳さん、一緒に写ってるの見つけられなくてごめんなさい。)

いや〜・・・。それまで1番敬遠していた行政、公務員という職が、自分の最初のキャリアになるとは。人生は分からないものですね。

白川村の協力隊はチーム体制で活動していて、大きく分けると、「空き家の再生活用」事業チームと、「新規事業・情報発信」チームに分かれていました。

チームの中でもそれぞれ多分野で活動をしており、個々の掲げるミッションも違っていたので、全体での業務内容はまた別の記事で書くとして。

私が関わっていた活動としては、今も続けている「ヒト大学」や「かやっこ劇団」の運営をはじめ、ローカルマガジン「そんみんし」の発行や、廃校舎の活用プロジェクト「つつみや」の企画運営、空き家の再生・活用・リノベーションワークショップのサポートや、移住希望者の受入対応、SNSやメディアでの観光・暮らしの情報発信、「白川村ナイト」という都市部で地域の魅力を伝えるイベントの開催などを行っていました。

始めの頃は、仕事の進め方も、村での振る舞い方も、分からないことだらけで、遠回りも失敗も、自分の未熟さゆえの悔しさも、3年間本当に沢山沢山ありました。

でも、そのおかげで最近やっと「地域で新しい文化を生み出すというのがどういうことなのか」、実感と理論を伴って理解できるようになってきました。

協力隊時代のおかげで、苦手だったメディア露出も上手くこなせるようになった。

プレイヤーが少ない場所で0→1のプロジェクトを立ち上げる大変さや、新たなコミュニティを育んで1→100にしていくやりがい、楽しさ。

「出る杭打たれる」世の中で毎日元気に活動していくためのすべや心構え。

新しい挑戦に疲弊している土地で、言葉を伝えることの難しさ。

地域に眠る資源の素晴らしさ。山の暮らしの本質的な豊かさ。人の温かさ。

綺麗事を一切言わず、地域に根を張って信念を貫いて生きている人の逞しさ。

その背中から滲み出る圧倒的な説得力とかっこよさ。

そんな様々な“人生のリアル”を勉強をさせてもらった3年間でした。

綺麗な打ち上げ花火を1発ドカンとあげるのは誰でもできるんやっちゃ。それをずーっと続けられる人が、なかなかおらんのや。地域を語ろうと思うんやったら、まずは1つのことを10年20年やってからやぞ。長く続ければ、価値や信頼は後から必ずついてくるもんやさ。

村の大先輩から頂いたこの言葉は、ずっと私の胸に残ってます。

異質な存在であったろう私たちを温かく受け入れて下さり、歩み寄って下さり、多くのことを教えてくれた村の皆様に、本当に感謝しています。ありがとうございました。

「よそ者」の立ち位置での経験は、人生を豊かにしてくれるね。

22歳の春、地域おこし協力隊の3年の任期を終えて退職。

先月2018年3月に協力隊を満期卒業して、この4月からは白川村でまちづくりの仕事をしているベンチャー企業「一般社団法人ホワイエ」の社員として働いています。

当初は協力隊を終えたら大学に復学する予定でいたので、村の方から「大学戻らんのか!」と心配されたり「もうこっちで永久就職したらどや?」と縁談の話が来たりしていますが・・・(笑)私自身は、より自由に「自分だからできること」を実践していける今の環境に、静かにワクワクしています。

新しい職場「ホワイエ」は、社長と2人きりのフレキシブルな会社です。「地域づくり」や「人づくり」という、私が今まで重ねて来た石垣島・白川村でのキャリアを活かせる稀少な職場であり、今の私にとっては東京で大学に通うよりも 価値の高い学びの場・挑戦の場であると感じています。

協力隊の任期を終える段階で、独り立ちして自分のプロジェクトを運営していくほどの準備が出来ていなかった私に、白川村でのポジションを作ってくれた柴原社長(同じく白川村の協力隊OBで、私の1期先輩)に感謝します。柴さん、本当にありがとうございます。

ホワイエでの仕事は、地域発信の面白い拠点を増やしたい・世の中をもっと多様性と安心感のある場所にして「自分らしく生きる」人を増やしたいう思いが根底にありつつ、ソーシャル大学の運営やイベント企画・講座運営、行政と連携した移住コーディネート、大学生の受け入れや地域の事業所のインターン受け入れコーディネート、村の教育施設として使っている合掌家屋を始めとする移住体験住宅等の物件管理、メディアでの情報発信などなどをしています。

田舎にある資源を編集し直して、新たな価値を生み出してスポットを当てていくこと。都市部と地域の欲しいものをうまく繋ぎ合わせること。

そんな草の根活動から、日本のあちこちに若者が挑戦を楽しめるようなふかふかの土壌が育って、結果的に地域課題や社会課題が面白く解決されていく未来を見れたらいいなと思っています。

なぜ白川村に残ったのか

この理由をとても簡単に言うと、「白川村でやりたいことがあって、大学でやりたいことがなかった」からです。東京に戻って大学生をしている自分の姿が全く想像できなかったんですね。

退任が近づくほどに、それまで続けてきた活動が、目に見える「価値」として地域に認められてきた実感が出てきて、村の人との信頼関係や仲間意識がギュッと深まるような出来事が続いたことも大きな理由でした。

私の言葉に本気で向き合ってくれる人も、今まで1人でやっていた活動を一緒に作り上げてくれる人も、いつの間にか随分と増えていて、地道に作ってきた小さな点たちが線として面として繋がってきたのが分かったんです。

家族のような存在の人、尊敬する人、大好きな人がこれだけ沢山周りにいて、気持ちのいい仕事と暮らしが両立できている今の環境を、また新たな場所で1から築き上げるのはとても大変なことだと分かっていたし、

3年間思い描いていたことがやっと形になり始めて来ているタイミングなのに、その全てを一旦手放してまで東京に戻る理由は、ありませんでした。

そして同時に「私はまだ何も成し得てないじゃないか。やっとスタートラインに立てたぐらいの所で、この土地に何も残さないまま、お世話になった人たちに何も還さないまま去るのか。」という感覚も胸にどしんと居座っていて。

「いつ死ぬか分からないから今を生きる」という言葉を使うと、刹那的な生き方に聞こえるかもしれないですが、

自分の頭と心を使って、「描く未来」に行き着くための「より良い今」を選んだのであれば、その先で起こる失敗や成功は何よりも自分の人生の糧になるし、その時の納得感や学びの質は、誰かのアドバイスに従って決めた選択よりもずっと高いものだと思うのです。

20代というのは特に、子ども時代の感覚や吸収力が残っていて、体力も精神力も優れている、長い人生の中ではとても短いモラトリアムみたいな時間。

そんな、挑戦にも失敗にも出会いにも気負わずに飛び込める期間だからこそ、「今しかできないこと」を選択したいと思いました。

大学はいつでも行けるし、どこに居たって自分の中での学びは一生続くもの

「大学でこれを学びたい」という意欲が自身の中に1つもない状態で、貴重なモラトリアムを日本の小さな大学の中で過ごすのは、とてももったいないように感じています。

5万人もの賢い人が集まっている大きな早稲田大学よりも、人口1700人にも満たない小さな白川村の方が、今の私にとっては、より良い学びの場になっている

これだけ価値の変化が早い時代だからこそ、そんな感覚も、自然なことのような気がします。

偉大な人が語る「より良い選択」と、自分にとってのベストチョイスが同じであるとは限らないという感覚を、誰もが心に持っていられたら、日本に溢れる「我慢」は減るんじゃないかなと思っています。

最後に、私はこれからどこに向かいたいのか

 

今まで22年間生きてきた中で、私は苦手な環境で我慢するのが人よりも苦手で、その分、自分が本当にやりたいと思ったことや素敵だと感じたことには寝る間を惜しんで努力を重ねられる、という性質があるとよく分かってきました。

なので、そんな自分の特性を活かしながら、違うと感じた場所にはさっさと見切りをつけて撤退し、自分の描く未来に突っ走る生き方を貫いていくと思います。

仕事で言うと、価値観がとても近い組織に属すか、自分の手で仕事を作るかのどっちかになると思います。

今はずっと興味のあった「教育」や「地域」にど真ん中で携われているので、これからはプラスαで、自分の宿を開きたいとか、もっと多様な人に会いに行きたいとか、語学を学びたいとか、地元で活動したいとか、お世話になった人や地域にお礼の気持ちを還したいとか、後輩たちに地元での面白い生き方を自分の身をもって示せるようになりたいとか、そう言う願望を1つずつ形にして、繋げて、自分の人生を作っていきたいと思っています。

 

道に迷いかけたら、4年前島を出る時に平田さんがくれた色紙の言葉を反芻して、自分がより成長できる方、挑戦者で在り続けられる選択をするだけ。

 

私のホームである石垣島と白川村には、かっこいい大人の後ろ姿が沢山あるなと、今書きながらしみじみ感じています。

何事も最後の最後はいつも自分の直感で決断していますが、その過程には、沢山の先輩方からもらった「本気の言葉」があって。誰かの人生から生まれたオリジナルの物語を聞かせてもらうことは、人生を豊かにするなあと思います。

皆さん、これからも色々な話を聞かせてください。

そして、最後に・・・

私が働く一般社団法人ホワイエでは、年中インターンの受け入れをしています。白川村、気持ちのいいところだよ。一緒に働く楽しい仲間を待ってます!

まちづくりの会社で、新たな生き方・働き方を模索する仲間を募集します。

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ABOUTこの記事をかいた人

沖縄県石垣島出身の早稲田大学生。地域づくり・教育について現場で学ぼうと、19歳のとき大学を休学して岐阜県白川村に移住。 石垣島と白川村を行ったりきたりしながら、人がよりよく生きるための学びの場づくりを模索・実践中。踊ること、対話することが好きです。